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幾く滝釜越え去りゆかば、
寂しさの果てなむ渓ぞ

埼玉県荒川水系大洞川

2001年8月18日〜19日

川久保秀幸


Text :川久保 秀幸

 お盆休みを女房の実家でウダウダ過ごして帰ってきたら、もう心は渓のことばかり。
 で、次の連休は秩父の大洞川へ行こうと決めた。これまで7、8回ほど下流に入渓して結構いい型のイワナが釣れたものだが、今回はキンチヂミの上流を中心に釣り上がって行こうという試みである。今回の釣行で一番の問題は悪場としてつとに有名な「キンチヂミ」で、釣りの解説本には単独行では危険だと脅している人が多かったが、ネットで探索した限り現在ではそれほど気にするほどのものではないなと、思い切って行くことにした次第。(実際は渓全体が悪場続きなのを問題にすべきであったが・・・)

 17日の深夜12時に家を出発して、3時に大洞川の林道入り口に到着。ふと脇を見ると、真新しい立て看板に「熊出没に付きご注意」という物騒な文字。月の輪熊ってのは体も気も小さいから人が来れば自分の方から逃げていくそうだが、そういう臆病な奴が人家近くまでテリトリーを広げて来るとは自然開発による生態系の破壊が相当進んでいることに思いを馳せないわけにはいかないだろう。

 待てよ、この看板はデジカメに収めれば話の種になるなと遊び心を起こして、ザックを開けて見たら、あれ?デジカメが見つからない!さては家に置き忘れたようだ!カメラ無しの釣行は今回が初めてである。もう頭を抱えてしまった。これが今回釣行におけるケチの付きはじめであった。

 それから10分と走らないうちに、がーっ、鮫沢橋手前で「通行止め」の無情なバリケード。前方の路肩が崩壊しているとかで行ってみると、こりゃひどい!林道の幅一杯がえぐられてその上に鉄板を5メートル渡してあるだけの危なさであった。本来の車止めである荒沢橋まではずーっと先で、進むとしたら長時間の歩きを強いられるのでこれは困ったことになったなと思ったが、上流へ渓泊まりしていける機会はいくつもないのでそのまま歩いて行くことにした。

 ちょっとだけの仮眠後、用足しのために付近の草むらへ分け入ったら、両腕の素肌にチクチクとする刺激がしたので、なんだろうと腕を見ていると見る見るうちに蚊に刺されたような腫れが無数に出来た。痒くはなかったが、しびれを伴う痛みが半日も残るほどであった。犯人はシソのような形をした草(後に「イラクサ」と判明)の細い茎に生えていた柔らかくて小さい棘だった。指の背で押してみたら、まるで「ハチの一刺し」のような毒針で痛かった。もし、しゃがんで用足ししていたらと思うと、こりゃ喜劇というか悲劇というか、大事なところがとんでもないことになっていたことだろうな。

 大岩がいくつもゴロゴロところがっている林道をテクテク歩いて荒沢橋に到着。ゲートを括って林道をまたテクテク歩き、そして脇の苫道を下りて惣小屋沢出合いに出る。二股に別れている左の沢に入って2時間ほどで、写真で見覚えのある滝が見えた。これがうわさに聞くキンチヂミの入り口かと。しかし想像したほどの高さではなかったので威圧感は別になかった。アタックしてみると拍子抜けするぐらいに難なくクリアできた。岩に打ち付けてある残置ロープのお陰だが、過信せず補助的に利用してかけ登ったり下りたりした位だから、噂ほどの難所ではなかったというのが正直なところです。

 しかし、それを越えた辺りの井戸沢が問題で、いやになる程の悪場続きであった。その渓の至る所に残置ロープやシュリンゲが何本もぶら下がっている光景を見れば、どれほどの険谷か想像できると思う。中には、ヘツリでは1.5メートルの割れ目が入って向こう側に渡れない岸壁の両側にハーケンを打ち込んでザイルを通した個所もあった。水面近くの低い位置に張ってあるのだが、それに足を載せて横にトラバースする訳です。ザイルは真新しいしハーケンもピッカピカの新品な所を見ると、最近になって水に濡れるのを嫌う沢登りの人が取り付けられたものらしいが、親切な人もいるものです。お陰で沢登りど素人の私みたいな釣り人は助かると言うものです。

 釣りよりテン場の確保が先と言うわけで適当な台地を物色しながら上へ上へと遡行したが、いつまでたっても見つからない。行けども行けどもブナのこんもりとした森と深いゴルジュの暗く狭い渓が続く。朝から相変わらすしとしと降り続ける雨で寒いし、水温も風邪を引きそうなほど冷たかった。腰まで浸かるのはもう難儀した。それで高巻きやへつりを繰り返したが、その最中に岩に当たった衝撃で腕時計がどこかへ吹っ飛んでしまった。これで時間がわからなくなってしまって、もう気持ち的には後ろ向きになっていく。幾く滝釜去りゆかば、寂しさの果てなむ渓ぞ・・・。心細くなってきた。

 先へ進んでも苔むした岩場と滝ばかりでなかなか明るく開けて来ない。その調子だとテン場が見つからず釣りする時間もなくなってしまう。しばし思案していると、下の方からぐんぐんと人が近づいてくるのが見えた。この渓で唯一遭遇した人間だが、ザックが軽めでエイトカン、カラビナ、ザイルなどフル装備している様子から、おそらく沢登りに来ている人のようでした。呼び止めて時間を聞いたら「11時45分」だと。出発地の鮫沢橋から6時間近く過ぎている。足の方はまだ疲れていないのでもう一踏ん張りということで、右岸の支流、前新左衛門窪出合いより上まで遡行したが、へつりに失敗して落下した際に口が岸壁に当たってしまった。口内の裂傷と前歯二本の損傷を負い、これで気持ちが決定的になった。帰心矢のごとし。釣りはもういい、クルッと右回りしてスタスタと帰路へ。

 しかし、行きはよく見えた残置ロープがどういう訳か目に入らなかったので、やむなく労力を強いられる高巻きを繰り返し、それが出来なければサブンと流れに入って駆け下りたが、何しろ、暗い谷間だと時間の感覚が分からないだけでなく、川底の状態が見極められない(一度は深みにはまった!)のにはまいった。あまりの陰鬱さに思わず、ゲーテじゃないが「もっと光を!」と天を仰いだ。

 キンチヂミをようやく駆け下りたときには、やっと余裕を持てた。足が引きつけを起こしそうなほど限界に来ていたので、二段式の台地を偶然目にしたのを幸いにここでビバークすることにした。テン場の設営を終えて一息ついたときに思ったことは、自分は沢登りに来ているのではない、釣りに来ているのだということでした。実際、釣りに費やした時間は一時間もなかったのだから、釣り人なら大抵そのまま帰るのは業腹になるだろう。と言うわけで、近くのポイントで糸を垂れると即座に二回引っ張られて静かになった。どうやら餌を食い逃げされたようだ。もう一回投げ込むとすぐにアタリが出たので軽く合わせると、この流域にしては珍しいヤマメがかかってきた。手を広げて計ると21,2センチ。早速晩飯のおかずとして塩焼きにして食べたが、味はいつモノの通りのヤマメそのものでした。

 体内時計で適当に時間を測っていたが、周りが闇に包まれるともう就寝するしかなかった。眠りにつくまでの時間がやけに長かった。長い夜の後で朝を迎えたが、空模様がまだすっきりしていなかったから、気分もいまいち晴れて来ない。朝靄が立っていたから多分6時頃に、朝食をたっぷりかき込んでからテン場を撤収。惣小屋沢出合いに戻ると昼までにはまだ時間があると見当を付けて、そこら辺りを釣り歩くことしたが、一時間ほどやってもアタリすら出てこなかったので、林道に戻って荒沢橋までトボトボと歩く。ここまで来ると、さすがに釣り人の数が増えてきて釣りにはならないのだが、それでも竿を出してしまう自分はバカに見えていただろうなと思う。案の定、魚信が全くないまま昼過ぎに納竿。

 道の駅「大滝温泉」で源流行の汚れや疲れを落としているときに、足の方は当然として脇や腹の方にも筋肉痛が来ているのに妙な気がした。そう言えば、何回も懸垂したときに来る疲労だという覚えがある。それほどに今回の秩父源流行は峻厳な岩場が多い渓だということを改めて思い返される。

 釣りの解説書でどこかの誰かさんの「キンチヂミの向こうにイワナの楽園」という、今思うといい加減な文句に釣られて行って見た渓だったが、短い流程に滝が連続するああいう渓相だと自分的には釣り心があんまり沸かなかった。もっとも、井戸沢に入ってから一度も竿を出していなかったから、魚影がどうのこうのと言えるわけはないかもしれない。しかし、少なく見積もっても釣り人にとっては魅力のある渓と言えるのかどうかは疑問に思うところである。トレーニングを積んでいるとは言え、山登り素人の私が前歯二本の損傷だけで済んだのは根が臆病だったからだと思うが、率直に言わせてもらうと、パートナーと一緒ならともかくとして、単独行では二度と行きたくない渓である。


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