「だめだぁ〜、登れな〜い。」
去年チャレンジしたメンバーからは話には聞いていたけど、もしかしたら登れちゃうんじゃないの? なぁ〜んて考えたのが甘かった。取り付き点には木も生えていて、途中まで登れてしまうところがこの壁の嫌らしいところ。しかし、足場は泥の壁でフェルト底のシューズではまったく歯が立たず、ズリズリと滑り落ちて立っている事すらままならない。登れなくなってすでに10分以上が経っているが、潅木の無くなった地点からは全く進むことができず、木にしがみついているのもすでに限界。両腕は他人様状態でプルプルしている。
「伊藤君、早く登ってザイル下ろしてくれぇ。」
「ちょっと待っててくださいね。」と渓道楽の若手伊藤君が50mザイルを持って、空身で尾根まで向かってくれた。
「まだかぁ、早くしてくれぇ。」と声を限りに叫ぶも、なかなかザイルが降りてこない。せっかくここまで登ったのだから、下まで降りるのだけは避けたいところ。だが、ここに立っているのも限界がきてしまい、取り合えずなんとか立っていられそうなところまで数メートル下る。そこへ下から千葉さんがやってきた。彼は昨年の雪辱を晴らすべく秘密兵器を装備している。それは靴に付ける「踏ん張る右足君、左足君」いったい誰のネーミングだか、凄いセンスである。まあ要は軽アイゼンみたいなものである。そしてさらにもう一つ、彼には最終兵器があった。シャベルである。そう、あの土を掘る小さな園芸用のシャベルだ。これが素晴らしい威力を発揮していた。これでズルズルの土壁に足がかりを掘り、階段のように足場を作っていくのである。それはそれは地味で気の遠くなるような作業であったが、確実に彼の体を尾根に向かって進ませていた。
「おぉ!やっぱ効果あるんだね。」
「でしょう、凄いでしょう。」とかなんとかいう会話をしていた、そのときである。
「あ”ぁ〜。シャベルが落ちた!」千葉さんの悲痛な叫びが朝日連峰の山々に木霊した。
こともあろうに最終兵器は手から滑り落ち、斜面の下にハイさようなら・・・。
「アハハハハ!やめてくれぇ、笑わすな。」それを見ていた私は笑いが止まらず、釣られて千葉さんも大爆笑。
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左上:さあ出発だ 夜明けの渓はひんやりとしている
右上:本流を渡り岩魚の楽園を目指す
左 :雪渓の残骸を越えて源頭へと遡行は続く
左下:水量が減り、高度が上がる
中下:とうとう流れは消えてしまった
右下:渓は急に傾斜を強め、行く手を阻む |
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泥壁に挑む、荻野さん |
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ここは山形県朝日連峰のとある渓。今日は1泊の予定で沢を詰めて尾根を越え、一山向こうの渓で釣り三昧のつもりである。今回のメンバーは、このサイトではもうお馴染みの副会長健さん、ナカナカこと中村、伊藤隊長、私(高野智)の渓道楽4名と、渓声会の会長である荻野さん、岩手のイワナ師こと千葉さんの合計6名である。
このうち健さん、ナカナカ、私以外のメンバーは昨年このルートでアタックしているので、この壁がどんなものかは良く知っている。初めての3人もかなり手ごわいというのは聞いていたので、覚悟はしてきたのだが・・・。
ようやく伊藤君がザイルとともに降りてきてくれた。随分と時間が掛かったんじゃないの。もう待ちくたびれたぜ。どうにかザイルに掴まりながら尾根の直下まで登ってきたけど、最後の最後がまた凄いじゃないの。「もう力尽きたぁ。荻野さん、ザック引っ張って!」とほとんどギブアップ状態で、ようやく尾根にたどり着いた。後続の仲間も次々と這い上がり、潅木の密集する蒸し暑い尾根で大休止。
今までいろいろな渓で泥壁は登ってきたけれど、ここは最強の壁であった。
尾根から見える朝日連峰の山々は、夏の強い日差しに輝いている。ここ朝日連峰の渓は源流釣りをやる者にとっては聖地のようなものだ。そこに降る雨は広大なブナ林を育み、梢から幹を伝って地中に滲みこみ、やがて川となって渓をくだり海へと注ぐ。
近年、海の栄養分というのは山から運ばれてきているということが分かってきたらしい。また山に生えている木々も海の元素が含まれているというのだ。全ては自然の大きなサイクルに組み込まれているのである。
朝日の峰々が真夏の日差しに輝いていた |
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「ここから数十メートル尾根伝いに行ったところから下降しますね。」と荻野さん。降りるほうはそれほど大変では無いらしい。
荻野さんの言ったとおりの場所を下降すると、地面がジメジメとしてきた。沢の始まりである。全ての川はこうやって始まり、海へと流れ下るのである。
ズブズブと潜る斜面を泥だらけになりながら下っていくと、やがて水が流れ始め、徐々に沢となっていった。
沢はしだいに水量を増し、チョロチョロの流れからしっかりした沢へと変わっていった。本流との出合いが近づくにつれ、沢は滝をかけた渓相となってくる。滝と言っても危険なものは無く、落ちるようなところではないので楽である。しかし、前を歩く健さんの足取りがどうもおぼつかない。
「腹が減って血糖値が下がってきた。」と健さんが言うので皆には先に行ってもらい、健さんが回復するまでのんびり休憩する。ここまでくればテン場はすぐである。急ぐことはないだろう。
いくつかの滝を下り、本流に掛かる5mほどの滝を降りたところに本日のテン場があった。先に着いた皆は釜に飛び込み火照った体を冷やしている。ドッボンドッボン飛び込んでいるから、さぞやイワナもビックリしたことだろう。
一休みしたあとタープを張り、今夜の宿が完成した。昼飯を食べたらいよいよ釣りに出発である。
「さぁ、皆行きますよ。行きますよぉ、千葉さん・・・。」あら、どうやらお疲れのようである。起しても起きそうも無いので熊のエサとなってもらおう。
上流にはナカナカ、伊藤君、私の3名。下流には荻野さんと健さんと別れて出発した。
「今晩はムニエルと塩焼きだよ。一人2尾は釣ってきてね。」と皆に伝える。
散々飛び込んだ釜に伊藤君がルアーを投げている。「あ、今追ってきましたよ。」
さすが源流、あれほど驚かしたにもかかわらず、2時間も経っていないのにイワナが出てくるなんて、驚きだった。
下降してきた沢の出合いをすぎてから3人は竿を出し始めた。しかし、あまりにも水量が少ない。思ったとおりイワナの出がとっても悪い。聞いた話だと、この渓はウジャウジャのはずだった。実際来たことがある人間からはそう聞いていたのである。ところが今回は警戒しているのか、ポツポツとしか釣れないのである。釣れない原因はもう一つあった。まだ最近と思われる足跡が砂地に残っていたのである。どうやらこの1週間くらいの間に誰か入った様子だ。泥壁にも登ったような足跡があったので、心配していたのだが。
渓はクネクネと蛇行を繰り返していた。ここまで上流にくると渓は平らになり、あまりポイントと言えるような場所はない。さらに渇水しているとくればなお更である。山の稜線は間近に迫り、最源流の趣を見せる渓を3人は釣りあがる。やがて良さそうなポイントが目に入ったので、ナカナカがそこに竿を入れると即座にアタリ。竿は曲がって良型のようである。上がってきたのは8寸ほどの綺麗なイワナ。もちろん今晩のおかずのためにキープさせてもらう。
しかし、その後もポツポツとは釣れるのだが、どうも良型が少ない。ここまでキープできたのは私の7寸が1尾とナカナカの8寸が1尾である。伊藤君はルアー向けのポイントが無く、竿すら出せない状況であった。
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かなり水量が少なく慎重な釣りを強いられた |
最初に来た7寸強のイワナ |
小滝に竿を出すナカナカ |
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源流部の渓は平坦な流れであった |
やがて何本かの支流が出合ってきた。そのうちの右岸から流れ込んできた小さな沢に私が入ってみる。沢は暗く両岸は崖のようになっている。
ちょっと行ったところで落ち込みが目に入り、エサを振り込んだ。水中に黒い影が走り仕掛けが引かれる。キープサイズくらいはありそうだったので、ちょっと待って合わせたのだが鉤がかりしないでバラしてしまった。まだ食うかなともう一度やってみると、また影が走ってエサを咥えた。今度はもっと待ってアワセをくれる。しかし、またしてもポチャン・・・。さすがに3度目は来なかった。
本流に戻った私は2人の後を追うも、ポイントの少ない川で2人はどんどん飛ばしていってしまったようだ。そんなに遠くには行っていないだろうが、追いかけるのがおっくうになってしまったので、引き返すことにする。実はもっと下で出合ってくる支流が気になっていたというのも理由だった。
砂地に「先帰る」とメッセージを残し、足早に支流まで下る。左岸から入る支流は荻野さんの言っていたように有望そうである。さっそく最初のポイントに竿を入れると元気な6寸ほどのイワナが出てきた。
「お、こりゃいいぞ。水温の高い本流よりも支流のほうだな。」と次のポイントへ。ここでも同じくらいのが出てきた。「よしよし、でももうちょっと大きくないとなぁ。」とさらに行くとここは絶対居ると思われる滝が入っていた。右から岩盤を伝って落ちてきた流れが対岸の岩に当たり、V字の水路のようになっていた。ここなら隠れる場所にも困らないだろうし、この滝は簡単には越せないような感じだったので、必ず良型が陣取っているはずである。
姿勢を低くして静かに近づいた私は、そっと仕掛けを投入した。エサが水面に着くと同時に影が走る。それは確実に先ほどのよりも大きく見えた。ゴツゴツというイワナ特有のアタリが竿に伝わってくるが、早合わせではまたバラしてしまうので、十分に時間を取りビシっとアワセる。提灯仕掛けなので竿を縮めながらタモですくうと、それは見事な9寸のイワナであった。
もう時間も5時近いので滝上をやるのは無理である。この滝をイワナが簡単に登れるとも思えないが、先人達が滝上にも放流しているであろうことは想像できた。しかし、夕飯の用意もあるし、ここは明日千葉さんにでもやってもらおう。
テン場に着くとちょうど荻野さんたちも戻ってきたところで、何尾かキープしてきたようである。1尾は9寸の良型である。
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今夜のお宿 |
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さあ、飯を炊いて宴会、宴会! 釣りよりもほとんど宴会をやりに来ているようなもんである。焚き火を熾し次から次へと出てくる料理や酒に大いに盛り上がった。
健さんとナカナカがまずダウンし、やがて伊藤君も焚き火にあたりながらごろ寝を始めてしまう。残された3人は渓道楽発足秘話や渓の話に花が咲き、気がつけばもう11時。ここらで寝ないと明日はまた山越えが待っている。まだまだ話をしていたかったがシュラフに潜り込んだ。
目が覚めると辺りはすっかり明るくなっていた。シュラフから半分体を出してタバコに火をつけ、千葉さんが釜に竿を出しているのをボーっと眺める。まだ眠っていたかったが、シュラフから這い出して焚き火を熾す。
朝の光に満ちた渓はすでにジリジリと気温を上げてはいたが、都会の蒸し蒸しとした不快な朝とは違って清清しい風が流れていた。昨夜は寒くて途中で目が覚めてしまったほどで、やはり渓は別世界である。
朝飯は千葉さんが持ってきてくれた岩手名産の「いちご煮」の缶詰を入れた炊き込みご飯。いちご煮とは、ウニやその他海産物の入ったもので、私も初めて食べるものであった。余った食材を全て使い切った豪華な朝食を終え、満ち足りた気分でのんびりとする。昨日釣りをしなかった千葉さんが竿を出したいという。しかし、あろうことか千葉さんはエサを忘れたそうなので、貴重な(と言っても昨日の残りだが)エサをエサ箱ごと渡し送り出した。「支流に入れば釣れるよ」と聞くと、ニコニコしながらテン場の滝を越えて上流に消えていった。
10時ごろにテン場を撤収し、テン場滝を越えて支流へと分け入り、みんなでワイワイガヤガヤ楽しみながら稜線を目指す。
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左上:尾根を目指し、一歩一歩沢を遡る
右上:楽しかった思い出を胸に・・・
左 :千葉さんスリップダウン ちゃんと笑いを提供してくれる |
尾根には思ったよりも早く着いた。そこからはひたすら下るだけである。あれだけ苦労した泥壁も下りはなんてことは無い。いったいなんであんなに苦労したのだろうか。もしかしたらもうちょっと頑張れば登れたんじゃないかなんて思ってみたりもする。しかし、また同じ結果に終わるのだろう。
途中ザイルを出して懸垂したり、その様子を写真に撮ったりしていたら、ちょっと遊びが過ぎたのか、思ったよりも時間が掛かってしまった。
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左上:往きには苦労した泥壁も下りはスイスイ
中上:副会長
右上:千葉さん
左下:ナカナカ
中下:伊藤君 |
帰りはいつも思うのだが、早く車に着いて温泉に行きたいと思う自分と、もっともっと渓で遊んでいたいと思うもう一人の自分が居る。重たい足取りは、ただ疲れているだけではなく、帰りたくないと思う心が足を運ばせないようにしているのかもしれない。
車まではもう一息である。さて今度はどこの渓へ行こうかな。
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楽しかった旅も、もうすぐ終わりを告げる |
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