悲劇の湖
水深423mで日本一深い湖、田沢湖。大深沢はその田沢湖に流れ込む玉川の源流部にある。本来、玉川は田沢湖に流れ込む川ではなかったのだが、昭和15年に発電及び農業用に水を使用するために行われた工事によって流れを変えられた。しかし、これが田沢湖に棲む生物たちにとって致命的な打撃を与えてしまったのである。玉川は上流に玉川温泉が沸き出し、水質は強酸性で死の川だったのである。
その水が田沢湖に入ったために、クニマスを始めとした多くの生物が消えてしまった。特にクニマスは田沢湖固有の魚であり他の場所には生息しない貴重な魚であったのだが、当時は戦争へとまっしぐらに突っ走っている時代であり、誰も反対などできるような時代では無かった。
つい最近、クニマスには懸賞金が掛けられ、なんとか探し出して田沢湖に復活を、という運動があったのだが結局見つからずじまいだったようである。昭和10年に山梨県の本栖湖、西湖にクニマスが放流されたという記録が残っていることから、それらの湖でひょっとしたら繁殖しているかもしれない。
前置きが長くなってしまったが、その悪水で名高い玉川源流部に今回の目的地、大深沢がある。玉川下流部には岩魚は生息していないが、源流部には居るのである。しかもテン場には温泉付きとくれば、行かずにはいられないだろう。私たちは19日の深夜に例によって東北自動車道をひた走ったのである。
ここでメンバーを紹介しておこう。今回は渓道楽の川上顧問と、その友人の中尾さん、渓道楽会員の荻野さん、そして私の4名である。中尾さんは渓道楽の釣行記初登場だが、以前は釣り雑誌等に文章を書いていた方なので、ご存知の人も多いだろう。今は「岩と魚の眼の会」という会の代表をしている。川上さんと同じく日本中の渓を釣り歩いているベテラン源流マンである。
ちょっとコンビニまで・・・?
さあ目的地はもうすぐである。林道は結構荒れていたが、無事に車止めのゲートに到着し、長旅の任を解かれたデリカは明後日まで休憩。さて、当然ここからは歩きとなるが、今回のテン場はなんとここから30分。前回の八久和の10時間に比べれば、軽い散歩程度。いや、ちょっとそこのコンビニまで行ってくるねとでもいうような、鼻歌まじりのルンルンコースだ。
|
|
目線は自然とキノコを探す |
真夏の日差しはブナの森に遮られ
ひんやりと涼しい |
ザックを担ぎ、ウエストベルトをギュッと締めて歩き出す。寝不足でだるいがたったの30分。こんなに気が楽なことは無い。そんな楽勝気分は渓の達人とて同じこと。5分も歩かないうちに顧問と中尾さんは早速キノコ採りを始めた。この林道脇にはチタケがわんさか出ているらしい。チタケとは傷をつけると白い液が出てくるキノコで、栃木県ではとても人気なキノコである。ところが秋田の人は全く採らないらしい。そのおかげで目に付くところにも沢山生えている。玉川に掛かる吊橋を渡るまでにコンビニ袋一杯に採れ中尾さんらはウハウハだった。
ユラユラと揺れる吊橋を渡れば目と鼻の先がテン場だ。ここは取水堰堤のための管理小屋が建っていて、その裏には作業員たちが使う目的で立派な湯船が作ってある。又口温泉、通称「見張りの湯」と言って、秘湯フリークたちには有名なところらしい。
テン場を設営する前に「見張りの湯」を見に行くと、キノコ採りのおじいさんが一人で入浴中だった。目当てのキノコはトンビマイタケのようで、籠一杯に入っていた。
|
|
見事なアカヤマドリタケ
大ぶりなキノコで美味しい |
真っ白なツチカブリ
林道沿いのいたるところに出ていた |
|
|
チタケを採る中尾さん |
チタケ
栃木ではマツタケよりも人気があるとか |
伝左衛門沢へ
さて温泉の前に当然釣りである。テン場からしばらく歩くと玉川は伝左衛門沢と大深沢に分かれる。大深沢は明日やることになっているので、今日は伝左衛門沢を軽くやってみることにした。
伝左衛門沢には湯田又沢という沢が流れ込んでいるのだが、これが悪水らしい。釣り場はその上からとなっていたのだが、実際には大深沢の出合下流にも魚はいた。伝左衛門沢取水堰堤までの道を歩いていると、眼下の流れに魚が群れている。しかし泳ぎ方からしてハヤのようだ。しかし1尾ユラユラ底に張り付いているのもいる。間違いなく岩魚だ。そいつを釣り上げようと竿を出したのだが、気づかれたのか見えなくなってしまった。そんなことをしてるうちに顧問と中尾さんは先に行って見えなくなってしまったのである。
私と荻野さんはその道を辿り、吊橋を渡って伝左衛門沢に入った。しかし、水が無いではないか。上で全部取水されているようだ。
「あれぇ、水無いじゃん。荻野さぁん、こっちでいいのかな?」
「足跡ある?」
「無いみたいけど・・・。伝左衛門に入るって言ってたよね?」
とたんに不安になる2人。
しばらく行くと何やらゴーゴーと水の流れる音が聞こえてきた。
「この先に取水堰堤があるみたいね。」
「じゃ、とりあえずそこまで行ってみよう」
と先を急ぐ。
しばらく行くと全部水を取っている取水堰堤に着いた。早速竿を出し仕掛けを繋ぎ、堰堤の溜まりに竿を出す。すると足元からユラユラと岩魚が走った。
「荻野さん、居たよ居た! 岩魚だ。」
しかし、どう見ても水が悪そうだ。転がる岩は茶色くなって、そうとう温泉が流れ込んでいるのが分かる。
2人はちょっとやってアタリが無いと分かると面倒になって、引き返そうということになった。とにかく長時間の運転で疲れているのである。
|
出始めのトンビマイタケ |
結構良型の岩魚の屍が水溜りに浮いているのを横目に見ながら、もと来た道を引き返す。大深沢出合を過ぎキョロキョロとキノコを探しながら歩いていると、ブナの倒木の根に何やら白っぽいキノコが出ているのを荻野さんが発見。
私 「これ何だろ」
荻野さん「ん、これがトンビマイタケって奴じゃないの?」
匂いを嗅ぐと確かにマイタケっぽい匂いだ。
私 「ホント? 凄いじゃん俺たち。トンビマイタケ見つけちゃったよ。」
荻野さん「川上さんたちに”でかしたぞ”って言われちゃうよ。(笑)」
とかなんとか会話しながら、そそくさとコンビニ袋に詰める。
トンビマイタケを手にした2人は岩魚も釣ろうと河原に下りた。出合を過ぎると小さいながらも流れも復活するので、釣り下ることにして竿を出す。しかしやはり水が少なすぎる。ハヤが泳いでいるのは見えるが、そのハヤすら釣れない。水の流れがほとんどないのである。
それでもなんとか小さな落ち込みに竿を出し岩の下に流し込むと、ようやく岩魚が掛かった。18cmくらいの小物だが、オレンジ色の斑点の衣を身にまとった、秋田美人のべっぴん岩魚であった。
「荻野さぁぁん、釣れたよぉ。」と知らせるも、「釣れないから飽きちゃったよ」との返事。
「じゃあ温泉ですか?」と二人の意見は一致し、テン場へと急いだ。
|
玉川本流に竿を出す私
上流で取水されていて、ほとんど水が無い
Photo by Ogino |
|
玉川本流で釣れた岩魚 |
|
まだ川上さんたちは帰って来そうにないので、番頭よろしく温泉の掃除を始める。湯船のお湯を全部抜き、底にたまった泥とヌルを備え付けのデッキブラシでゴシゴシ擦った。擦ったら凄いことになった。ヌルがかなり溜まっている。
「さっきのカップル、こんな湯に入ったのかねぇ」
「男はともかく女も入ったのかなぁ」
先ほど釣りに出かける前に一組のカップルが入浴しにきたのである。
そんな会話をしながら二人で掃除を続け、「こんなもんかな?」と栓をして再び湯が溜まるのを待った。
そうこうしていると2人が帰ってきた。
「釣れましたか?」と尋ねると、「釣れたよ、小さいけど」とのこと。残念ながらキープするほどのサイズでは無かったようで、初日は岩魚無しである。
「そうそう、道沿いでトンビマイタケ見つけたんですよ! 凄いでしょ、俺たち!」
と自慢げに鼻の穴をおっぴろげながら川上さんに報告した。すると、
「なんだ、お前らが採ってったのか! それは行きに俺たちが見つけた奴だぞ(笑) 中尾と後で採って帰ろうと話してたら無くなっていたから”しまったキノコ採りのオヤジに採られちまった”って話してたんだよ。」
「エ〜、そうなんですか・・・」おっぴろげた鼻の穴がシューっとしぼんだ。
名人は目ざとい。私たちが太刀打ちできる訳がないのである。
さあこれからは焚き火を焚いて楽しい宴会タイム。そして温泉だ。テン場に温泉があるなんて天国だ。いつもなら源流に泊まれば汗臭いままなのだが、今日はさっぱり汗を流せるのだ。
真っ暗な中、湯船に浸かるのは、えも言われぬ風情がある。お湯加減もちょうど良く、疲れがすぅっと引いていくようだ。湯船の横には湯の川が流れ、月明かりにボ〜っと湯気が立ちのぼるのが見え幻想的でさえある。これで一緒に入っているのがオジサン達でなければなぁ・・・。
大深沢へ
|
朝湯に浸かる中尾さん |
明けて20日。5時過ぎに中尾さんに起こされた。そして当然、朝も温泉だ。
湯船まで行って溜まった湯を見て驚いた。昨日掃除する前は透明な湯だったのに、白く濁った湯になっているではないか。なぜ最初は透明だったのだろうか。
ま、細かいことはどうでもいい。ゆったりと浸かって、まったりする。こうやっていると釣りに出かけるのが面倒になってくる。というか行きたくないなぁと思える理由があるのだ。それは昨日の宴会中に川上さんが
「明日は関東沢出合まで案内するからな。そこに行くまでには泳ぎが1箇所、あとゴルジュがある。ゴルジュは結構キツイぞ。総合力が試されるからな。ゴルジュの先には15mの滝があって、俺はそこを直登する。大丈夫だ、ちゃんと巻き道もある。」
と散々脅かされていたからである。
川上さんが「キツイ」というからには相当の難所と思われた。普段は「大丈夫だ、楽だよ楽!」と結構大変なときでも楽観的なことしか言わない川上さんである。その川上さんがキツイというのだから、こりゃ余程の大変さなんだろうと察しがついたのである。
そんなイマイチ気乗りしない私。そんな気分だから歩きにも影響する。グズグズしてたら皆に置いていかれた。
「あ〜、もう、皆歩くの速すぎだよぉ」と独り言を言いながらも大深沢の堰堤上にやってきた。堰堤上は広河原となっていて、遥か先を中尾さんたちが歩いている。その広河原が終わり渓が狭くなる頃に、釣り支度を始めた皆に追いついた。
まだ落差はないがブナの森に囲まれた綺麗な渓だ。仕掛けを繋ぎ皆の後について釣り始める。中尾さん、荻野さんはテンカラ、私はエサ釣り、そして川上さんは・・・、今回もまた釣りはしないようである。
最初の滝を越えたあと私の竿に岩魚が来た。7寸くらいの型であったが美しい岩魚だった。どうやら底に張り付いている感じだ。
その後もポツポツと釣れるが、あまり魚影は濃くないようである。また型もそれほどではない。テンカラの2人は苦戦しているようで、魚は毛鉤に向かってくるのだが、引き返してしまうとぼやいていた。
「あいつらだと怪しいから、高野、お前キープしとけよ。」と川上さんに言われる。それほど毛鉤には渋かった。
いくつかの通ラズを越えて釣りあがると、上に行くほど魚影は濃くなり、テンカラの二人にもポンポン釣れるようになってきた。私はいつの間にかエサ箱の蓋が開いてしまったようで、エサのミミズが半分くらいに減っていてガックリ。
|
朝日差す渓に毛鉤が舞う |
美しい大深沢の流れ |
|
大深沢の岩魚 |
|
腹の橙色が美しい |
|
|
大深沢中流には柱状節理が発達している |
中尾さんの毛鉤にも良型が来た
この辺りから魚影はどんどん濃くなってきた |
|
|
|
|
|
私の流すエサになんのためらいも無く出る岩魚
Photo by Ogino |
ゴルジュへ突入
ヤセノ沢が左岸から出合ってくる手前で、渓は再び広河原となった。この先が例のゴルジュらしい。その前に腹ごしらえをしておこうと昼飯にする。メニューはラーメンとチタケのまぜ御飯、そして岩魚の刺身だ。
|
|
岩魚の刺身
プリプリして美味 |
|
そして、いよいよ今回一番の難所への突入である。
私 「ゴルジュ、やばそうだよね」
荻野さん「ちょっと覗いて、無理そうだったら引き返しちゃおう」
私 「うん、そうしよう」
ベテラン源流マンの二人と違って、ナンチャッテ源流マンの2人は戦う前から逃げ腰である。
それでも重たい腰をあげ、ベテラン2人について歩き出した。渓はそれまでの広河原とは打って変わって、急激に両壁が立ち上がり、ゴルジュの様相を呈してきた。
そびえる岩はまるで精密な機械によって切り出されたように、キッチリ直線になっている。こんなに見事な柱状節理は初めて見た。
「高野、この先に15m滝があって、その滝壺にデカイのが入ってるから、右から行って釣って来い」と川上さんに言われて竿を出す。滝壺はゴウゴウと水流が渦を巻き、怒涛の勢いで流れ落ちていた。しかし、残念ながら主は不在であった。
ところで散々脅かされたゴルジュ、なんとここらしい。滝を直登するのは困難だと聞いていたのだが、どう見ても滝の左を楽に登れそう。それにその手前のヘツリもちょっと嫌らしいが特に問題なくクリアできそうだ。登ってから聞いたのだが、以前川上さんが来たときは今より1m以上水位が高くてそれは大変だったそうだ。それを平水だと思っていたらしく、減水している今回は楽勝。恐ろしいゴルジュを難なく突破できて、ホッと胸を撫で下ろすナンチャッテ源流マンの2人であった。
|
|
|
15m滝を直登する中尾さん
数年前に顧問が来たときは、このルートは流れの下だった |
私にも登れてホッとする
Photo by kawakami |
|
Photo by Ogino |
15m滝を過ぎるとすぐに5mの滝。この滝は美しかった。滝というのは、大体が深い谷間に掛かっている。両側から木が覆いかぶさり空はほんとに狭く見えるというパターンが多い気がする。ところがこの5m滝の上は広河原になっているようで渓は一気に広がり、滝上には山は見えず白い雲と抜けるような青い空が広がっていたのだ。私はこの風景を写真に収めようと何回もシャッターを切った。しかし、後にモニターいっぱいに表示してみても、目で見た感動的な風景はモニター上には映し出されなかった。”真実を写す”のが写真であるが、その場に立って五感全てを使って感じたものには到底敵わない。それとも写真の腕を磨けば写真を見た人に同じような感動を与えることができるのだろうか。
|
滝の上には抜けるような青空が広がっていた |
ゴルジュを抜けたあとの大深沢は川幅を一気に広げ、急になだらかな優しい渓相になる。両岸の山は山抜けを起こして荒涼としていたが、岩魚は健在だった。頭上に広がった青空には真っ白な雲が浮かび、夏の日差しが私たちを射抜いている。ジリジリと強い日差しに焼かれながらも、なおも4人は遡行を続けた。私の竿には捕まえた赤トンボがエサとなってぶら下がり、次のポイントを虎視眈々と狙っている。テンカラ組の2人のラインは青空にきれいな弧を描き快調に釣りあがる。
大深沢はあと少し行くと関東沢と名を変え分水嶺へと突き上げる。山の向こうは葛根田川だ。川原には何百匹という赤トンボが舞い、無数に転がる白い岩が眩しい。その岩の間を流れる水はどこまでも透明で、私たちの心に染み入ってくるようだ。秋田は本当に遠かったけれども、それを差し引いても余りある感動を与えてくれた。この渓の風景はずっと心に残ることだろう。
私たちは白く輝く広川原で竿を仕舞い、渓を駆け下った。テン場にはたっぷりと湯が張られた心地よい温泉が待っているから・・・。
|
Photo by Kawakami |
帰りがけに寄った歴史ある後生掛温泉 |
|
|
八幡平アスピーテラインからの雄大な眺め |
|